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徒然ラボ

くだらないことがおもしろい 好きなんだからしかたない

麗しい人

4/16 3:30

よせばいいのにこんな時間に書く。

春の空気にカサついた肌に、珍しく保湿クリームを塗った。柄にもないことをしたから興奮しているのかもしれないし、もっと根本的に男とか女とか関係なくある程度は綺麗であるべきだなと真剣に考え始めたからかもしれない。昨日、女王蜂のライブで見た、麗しいことは人間らしさの証明みたいな光景のせいかもしれない。

麗しいことは虚構でも空虚でもなく人間にとって純粋すぎる本当だ。

動物としての、そして人としての健やかさがそれを作るから。

健康とか美容とかロハスとかオーガニックとかナチュラルとかそんなトピックで括られがちな話だけれど、薄っぺらいファッションみたいに消費する話ではないことがやっとわかった。

女王蜂のメンバーの人たち、特にアヴちゃんの、舞台上での魅せ方、100パーセントクリアな解像度で発せられた鮮やかな生命感に感化された、という綺麗なきっかけだということにしているけれど、実際はボディブローのように溜まってきた綺麗じゃない動機がある。

それは文字通り、健やかでない、綺麗じゃない人たちを見てきたから。最近は特に。

僕の両親世代の人間というのはみんないい歳をしていて、外見もおよそその歳相応のものになっている。

およそ、というのが肝で、年齢よりも若かったり、老けていたりする。

この老けているというのが本当に、僕は恐ろしい。と思った。

年齢とともに老いていく、そのスピード以上に体を朽ちさせてしまう。それが恐ろしい。自然の摂理に反するような、ゆっくりと生命を放棄していっているような違和感がある。

母に、友達の旦那の写真だと言って見せられた、あのおじさんの姿がふと浮かぶ。

水分も、生命もすっかり枯れきってしまったような肌で、体で、笑っているその姿。

無造作に禿げ上がった頭、野暮ったい格好。

何かが決定的にかけている気がして全てが灰色に見えてくる。

あの肌も、体も、頭も、格好も、それだけでは僕に恐ろしさを見せない。

その根底にある、肉体への無関心さと、それによって生じた結果という因果こそが元凶なんじゃないかな。

命はおよそ心と体で出来ている気がするけれど、その半分をほったらかしにして、時の流れ以上に朽ちさせることは生きることの本当ではないように思う。まして、そんな顔に讃えられた笑顔ほど虚ろなもの、グロテスクなものはない。

きっとここから先に、様々な思想が生まれるのだと思う。

一つは、朽ちていく体は心に対する枷だという考え方。

意識しても努力しようとも結局は訪れる肉体の老い。一方、精神は永遠であるように思われる。

肉体は精神の足を引っ張る枷でしかない。むしろ、灰色の世界に精神ごと沈んでいく檻のよう。

さらにたちが悪いことに、食欲、睡眠欲、性欲、様々な生理的欲求によって生きているうちは恒常的に死、苦痛を予感させる。

ああ嫌だ、体が憎い、怖い。死にたくない。

そういう考えかた。

古い本にもソーマやセーマとかいう言葉もあるくらいだからきっと僕だけの空想ではないはずだ。

僕も自分を振り返るとこの考え方をしていたはずで、食べなきゃ、ちゃんと暮らさなきゃ野垂れ死んでしまう体が億劫で仕方なかった。

でも、そんな肉体への後ろめたさを知りつつも、逆に、麗しくあることの健やかさの意味を考えると、もう一つの考え方もあり得る。

心につきまとう体はそのまま唯一の命の媒介なんだから、苦痛も、そして喜びのダイレクトな源だという考え方。

肉体的な健やかさは、心と命を健全につなぐ。

過去何度も言い古されてきたであろうこんな文句が、今、僕にはやけに鮮明に聞こえている。

それは、最初書いた通り、肉体的な健やかさが、麗しさがそのまま精神の解放の例となっている姿を見たから。肉体の麗しさそれ自体さえ心を、生きる意味を満たすことがあると知ったから。

邪魔だ邪魔だと思っていた体は、生きているのを楽しむための相棒だったと気づいた。

どんな肉体の状態が最もいいかなんて、実はわからないけれど、要は体を意識し、謳歌することが大事なんだ。

食べるのも、寝るのも、生きる動機になり得る。

麗しくあるために意識してそうすることは生きる意味になり得るほど、美しい結果を生むこともある。

ようは捉え方の問題だけれど、体は命の終わりを持ってくるものに違いないけれど、命の半分にも違いない。僕はポジティブに捉えることを知ったし、そうしたい。

せめて麗しく、健やかな体で在って、僕の心がゆく世界を感じたいし、何より、自分にとって大好きな人の横にいる自分がそうであった方が、きっともっと幸せだと僕は空想する。

だから、明日も僕は保湿クリームを塗るのだろうし、今より好きな体のためにちょっと野菜を多めに食べたりするんだと思う。

 

ブコルスキーのせい

毎日書きたいと思うことがポッと湧いてくるたびにツイッターで消費する日々。

前にも書いた気がするが、僕はチャールズ・ブコルスキーのように書きたい、書くことそれ自体が目的であるように書きたい。

彼はテクノロジーに抵抗のない人間だったのでタイプライターの時代に率先してコンピューターを取り入れ、書いていた。彼にとって大事なのは書くことにまつわる格式や方法論ではなく、書くことそれ自体であったから、より滑らかに自在に文章を操れるコンピューターこそ書くのにふさわしかった。

遅咲きだった彼は、惨めに放浪もしたし呑んだくれた。作家になることを諦めることもあった。なりふり構ってられなくなっても書いた。くそったれを人生に突きつけながら、書いて書いて書きまくった。作家としてうまく行ったとき、彼はもっと書くようになった。書くことが彼にとって重要だった。

今、僕もコンピューターの前に座って書いていることにはかわりない。

では、Twitterを開いて書いていることはどうなのだろう。

文字制限を除けば、やっていることそれ自体は変わらない。どちらも書いている。短いセンテンスを思いのまま書き上げては投稿する。書いていることに連鎖して思考は回転し新しい言葉が紡がれていく。体感的にも悪くない。スポーツをしている時のような流動的な身体感覚。

しかし、くそったれなことに、気に入らない。

つぶやきよりもブログの方がずいぶん上等であるという感覚が頭を離れないのである。

ブログはツイッターと違って短く投稿を重ねる形式ではない。ツイッターはいわば一息での思考だ。実にリアルタイムだし、気軽なものだ。ブログはそうでない。

何回もの深い呼吸を重ねて、言葉を紡いで行かなくてはいけない。長い潜水のようなものかもしれない。集中力を必要とする。しかも、忌まわしいことに今書いているこの行の上にはずらっとそれまでの呼吸の跡が常に見えるときている。一息ごとにはごまかせていたような粗も、大きな流れの中では早々に顕在化する。そして溺れる。

故にブログを書いている時間は非常にナーバスなものである。湧き上がる思考の波を、滑らかに紡がなくてはならない。それをやりおおせることは、つまり表現であり心からの喜びであるが、できないことは自己嫌悪をさえ生み出す。無視することもまた然りである。見て見ぬ振りができない奔流をあしらうのがいわばツイッターなのだろうが、精神安定剤程度でしかない。なぜならブログで書くような長い文章にしかない、あの自由さ、思考の流れの解像度、そしてスリリングさを知ってしまっているからだ。知ってしまった以上は、妥協は妥協でしかありえない。

それに僕はブコルスキーを知ってしまった。

パソコンでまとまった量を書く彼の文章を読んでしまった。

日記のように、夜毎、マシンに向かって二時間ほどを幾夜も重ね、書いた作品を。

思わず考えてしまう。彼が今の時代に生きていたとして、ツイッターでつぶやいていたとして、果たしてこれほど魅力的で自在に書けていたかと。

答えはきっとノーなのだと思う。

彼のせいで、ツイッターは、僕の書くことは、ただの慰めに落ちぶれさせられてしまった。本当に書くことの、思考を発散させることを見せつけられてしまったから。

くそったれ。

もし、彼がつぶやいたとしてもきっと、このくそったれ。の一言だけだったのかもしれない。生きているうちに見える日々の機微というものは、ツイッターには複雑すぎる。強いて言えば、くそったれの一言に終始する。一息で考えることのできない、息苦しい思考の先に、くそったれではすませれない先に、命の肌触りがある、悪くないものがあるのだと、そう思う。

人生適当にあしらってるだけじゃ楽しめないね。くそったれ。

 

死をポケットに入れて (河出文庫)

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