徒然ラボ

幸田アダのブログです

五月病

4/30  23:58

 

後2分で四月が終わる。

間違いなく、この記事を書き終わるまでに五月が来てしまうし、このブログが月間200pvを達成するのも当分先になる。少し残念だけれど、仕方がない。

グダグダ言ってるいちに、今、五月が来た。

三月ごろに友達と、ゴールデンウィークなんてぽけーっとしてたらすぐにやって来て、次に気がついた頃には夏休みだなんて言ってたけれど本当にその通りだと思う。

毎日そんな大きな変化があるわけでもなく、淡々と、時にダラダラと目の前のことや感情に向き合っていると時間はあっという間に過ぎていく。

何か面白いことをしようと思えば何かすごい人にならなくては、十分な準備がなければいけない気がするけれど、気がつくと毎日が終わっていて、得体の知れない諦めきれなさと寂しさ、そして焦燥感で夜更かしをしてしまう。

夜更かしのツケを払うみたいに眠たい昼間を頑張っていくうちに気が付いたらもう五月が来ていた。

生きることは生まれてから死ぬまでの間をいかに埋めるかみたいな営みだから、言ってしまえば暇つぶしだと思うのだけれど、贅沢な僕はただ生きるだけでは空白は埋まらないみたいだ。面白いことがないかなといつも考えてしまう。昔、偉い科学者が自然は真空を嫌うと言ったそうだ。僕の命も全くそうで、いつか僕が死ぬその瞬間と今この瞬間の間の真空が僕をはちきれさせそうだ。頭は空っぽの時が一番うるさい。

五月も始まって間もないというのに僕の五月病はもう本調子である。

空白を埋める方法は案外難しくて、何で埋めようとも実は意味がないのではないかなんて考えてしまう。真っ白のページに水の入ったペンで書き込んでいくみたいな空虚さを感じてしまう時がある。

空白を埋めるのは難しいけれど、できることがないかといえばそうではなくて今思いついただけでもやりようは二つある。

 

一つは無心に水のペンで書き続けること。書くことに集中し続けること。

書いた後を見返す間もないくらい先に先に進めていけばいい。

大抵の場合、気が滅入った時にはなんであれ空虚に感じてしまうのだから。過去の賢い人たちが色々考えすぎて空白を埋めることそれ自体に嫌気がさして、一気に終わらせて来たのもその証拠だと思う。空白を何か意味のあるもので埋めようとするのは本当に難しい。

だから、埋められたかどうかなんてことを確認しないで、ひたすら手元に集中すればいい。空白をどうにかする方法はまず第一に空白を忘れるほど集中することだ。

それはなんでもいい、書くことでもいいし、TVを眺めるだけでもいい。それが楽しいと思うのであれば、空白を忘れることができるのであればなんだっていい。

注意しなくてはいけないのは、なんでもいいけれど、それが長持ちすることだ。

人生は結構長いから、この先何十年と長持ちすることが必要だ。

それに一日はなんと24時間もあるのだから、そのうち何時間かを睡眠に充てるとしても、残りの十数時間はその何かで保たせなければならない。こういう意味でも、長持ちしないといけない。

僕を含む人間の大半にはオナニーという結構長持ちする暇つぶしがあるけれど、それだって一日中やってるわけにはいかない。

オナニーに代わる暇つぶしを、もっと長持ちする何かを考えないといけない。

それを見つけて、それに精神を集中させれば空白に押しつぶされるような馬鹿みたいな状況を避けられる。

 

もう一つの方法は、本気で面白いことで空白を埋めにかかることだ。これは正攻法っぽい。さっき書いた、何かに集中することと、それに意味を持たせることの合わせ技も考えられる。

本気で面白いことがなんなのか、僕にはさっぱり実態がつかめないけれど、誰しもなんとなく胸に抱く、良さそうに思える高みというか状態があると思う。

僕でいえば、廃墟みたいなゆとりある家に住んで早寝早起きすること。できればルイスバラガンの住宅みたいなのがいいな。

仮面であれ絵であれ、見る人に何か面白いと感じさせるような作品作りをすること。

好きな人と暮らして、できれば毎日散歩すること。

考え始めると夢は広がる。いずれにせよなんかしらあるはずだと思う。すごく辛い時でさえ、僕は散歩が好きで、苦しいのは嫌だと思うから、少なくとも苦しくない状態で散歩ができることを夢にしている。

こんな夢は叶えばきっと空白を埋めるものだと思う。

少なくとも叶うその瞬間まで、空白を埋めるにふさわしいものであり続ける。

本気で埋めにかかることは本気で夢を叶える、今より素晴らしい今を実現させにかかることに違いなくて、それには綿密な計画と、十分な準備が必要だ。

見事なまでに自己啓発っぽい内容になってしまっているけれど、五月病患者は得てしてこういったことを口走りがちだ、きっと自己啓発本を書いているような人たちもみんな五月病を患ったろくでなしに違いない。

大事なのは夢を叶えるのにいかなる戦略が考えられるかということだ。

いよいよ自己啓発本っぽくなって来た。

差し迫って必要なのは時間と準備であると思う。

自分の目指すところは、成したいことはなんなのかそれを考えるのには時間がかかるし、それを実現させるのには準備が必要だ。

それらを確保するための基本の戦略を今日の夕方、散歩していて思いついた。

それは、やるべきことをこなす時間と、そうでないやりたいことに割く時間を分けることだ。

できることなら朝からやるべきことに取り掛かって、夕方6時ごろまでにはケリをつける。そして残りの時間はやりたいことに向かってやる。明日以降のために時間を使う。

肝心なのは諦めだ。

夕方までにケリがつかないときは、諦めて明日の自分に任せるのも時には大切だ。

その日の良し悪しは夕方までに決まると思っていればいいと思う。

諦めて、夕方以降の時間を、明日からのやるべきことを効率化するする方法を考えるのに費やしたりする方が生産的だったりするかもしれない。

いずれにせよ、やるべきことに追い回されるのは面白くない。やるべきことなんて実際なくて、それはただ誰かが自分にやってほしいと思っているだけのことなんだから、それだけにあくせくするのはなんだか変だと僕は思う。

 

つまり何が言いたかったと言われれば、僕は五月を迎えて、暇で暇で仕方がないのにやるべきことに追われて、頭がどうにかしそうになっていたということで、明日からはきっと夕方6時くらいまでにその日の良し悪しを判断するようになるのだと思う。

6時以降はちゃんと明日以降のために動けるといいなと思う。

ちなみに今日はいいとは言えない一日だったけれど、6時以降は悪くなかった。明日からだ。明日から。

 

そして人は人生について考えるとどうも自己啓発本の中で言い古されたようなことを考えるんだなというのもなかなかに面白かった。

マストドンはインターネットのガンジス川

4/23  20:47

 

見事に人生を無駄遣いした気分の1日。無駄ではない1日があるとすればそれは怪しい気がするし、逆に意味とは何か考えたりするとこの先数時間までもが無駄になってしまうのでやめにするけれど、とにかく何もしていない1日だった。

昨日買った新しいスニーカー、KARHUARIAは今日も陽の目を見ることがなかった。

起きて歯を磨き、遅い昼食を食べたのちに夕方の散歩に出ればよかったが、インターネットに浸っていた。サーフィンするまでもなく情報以下の言葉の奔流に身を任せていた。

何が言いたいかといえば、12時間前ほどに今話題のマストドンを始めた。

f:id:turedure-lab:20170423210653p:plain

流行り物には一旦乗っかるのも悪くはないと思う。

よくわからないままでいたって結局よくわからないままで面白くない。

やってみて時間を無駄にすることは少し罪悪感を感じさせはすれど、僕は嫌いではないい。むしろちょっと好きなくらいだ。無駄に価値を見つけてそれらしい名前をつけていくのが大好きだから。

マストドンの正体を知りたい読者にとっては脱線気味かもしれないけれど、マストドンの意味わからなさ、無意味さはこの記事の比ではない。

マストドンがなんなのか、あの新進気鋭のSNSの構造、例えばインスタンスがなんなのかとかそういうことは他所様の記事にお任せすることにして、今日は僕が12時間ほどあのわけのわからないタイムラインを眺めて思ったことを書こうと思う。

初めて使う人がまず考えるのはこのSNSは一体どう使えばいいのか、なんのために使えばいいのかということだろう。例えばtumblrなんかは「インターネットの墓場」なんて言われているが、そんなふうにmastodonを言おうとすれば「インターネットのガンジス川」だと思う。つまり潔癖症な人間から言わせればろくなものではない。得体の知れないものが混じり合って無意味が浮かび上がって大きな流れができている、そんなところだ。

タイムラインの状況としては、無造作に何万人もの人をフォローしたアカウントのそれみたいなものだと思う。毎秒何ツイートかのとりとめもないツイートが流れていく。ツイッターのヘビーユーザーであればもしかしたら馴染みの深い状況なのかも知れない。

しかし、僕のようなフォローを無造作にしていくことがなんとなく億劫な人間からすれば、絶対にフォローすることも、というか目に触れることもなかったであろうアカウントのつぶやきまで一切合切が流れてくるタイムラインは新鮮そのものだ。

マストドンはログインしたその次の瞬間からローカルタイムラインもしくは連合タイムラインという、さっき書いたような実にカオスなタイムラインにアクセスできるようになっている。

mstdnではいわゆるツイートのことをトゥートという非常に打ちにくい用語で呼ぶことになっていて、そのトゥートが一秒間に何個もタイムラインを流れていく、まともに追っていけば10秒前のトゥートを見るのも困難なレベルで、すごい勢いで更新されていく。

お気に入りのアカウントをフォローしてツイッターを楽しんでいる人たちにとっていえばおそらく質はツイートをはるかに下回るものばかり。「らーめんなう」やら「膣」やら意味もないうっすい文字列が並んでゆく。時折、気合の入った言葉も流れていく。

面白いのはその全てが同じように、発信された瞬間には不特定多数の誰かに見られ、数秒後には誰の目にも触れなくなるようなところに流れて言ってしまうということで、mstdnのタイムラインではアルファツイッタラーとか有名人とかいうアカウント自体に備わる価値がまるで意味を持たない。

 全てが等価に流れていく。

もちろんホーム画面を訪れれば過去のtootも見ることができるんだけどそんなことは滅多にないし、マストドンが垂れ流しの場であることはみんな織り込み済みだと思う。

ツイッターにはフォロワーがいたりすると謎のブレーキがかかって思うように呟けないこともあるけれど、マストドンなら何を言おうがすぐに流れていくので、やりたいように書ける。

それこそ、下書き保存に引っ込めておく羽目になってしまった投稿なんかもマストドンなら綺麗さっぱり流してくれる。

とはいえ、下書き保存に残しておきたい類のものも間違いなくあってだからこそツイッターは今でも大切なままだけどね。

インターネット世界での露出癖というべき、自分の思考をさらけ出したい欲求は不特定多数の人間にただ晒されることで満たされる。ここはさながら肉体抜きのスクランブル交差点で、誰も足を止めないけれどそこには居て、あなたは何かを言うこともできるしそうしないこともできる。周りの誰かは何かを言っている。

マストドンはただただリアルタイムの大きな流れであってそれを面白く思うかどうかはその人次第でしかない。

さっき見ていたTLでは膣関連のトゥートの間にスティーブ・ジョブズを讃える言葉が混ざっいて、一番目立っていたのはラーメンの写真だった。

それこそ川の流れのように眺めるのもいいし、その流れに自分の言葉を流して見るのもいいと思う。信じられないくらい刹那的に完結していくレスポンスがそこにはあるし、僕は結構気に入っている。

facebookinstagramみたいなSNSは過去をショーケースに飾っていくみたいに綺麗にアーカイブしていくけれど、ツイッター、そして特にマストドンみたいなSNSはそんなこと深く考えず、瞬間風速に身を任せている感じがある。全体よりも一部に集中する、感覚的な短文が蓄積されていく。月並みな言い方になるけれど、実に諸行無常っぽい、日本人好みなSNSだと思うし、流行ってきている理由もよくわかる。

 

この通り、マストドンはやっぱりよくわからないもので、楽しい人には楽しいかもしれない言葉の奔流である。この記事をここまで読んだ人であれば、結構楽しめるかもしれない。ただ一つ言っておきたいのは、そこにあるもの、得られるものはきっと無意味でしかなくて、後に残るものは特に何もないと思う。僕みたいに人生を無駄遣いしたなぁと1日の終わりに思う羽目になっても知ったこっちゃないよ。