価値=(報われた)時間
5/1 23:33
例のごとく、写真に意味はない。
ゴールデンウィーク中は極力更新しようと思う。
特に書く内容もないのだけれど1時間くらいで2000字くらいを目指して書こうと思う。
毎日2000書けば、一週間で14000文字。原稿用紙35枚分。
すごいのかどうかわからないけれど、文庫本1ページの文字数が714文字で、一冊およそ10万字ほどだそうだから、このペースを50日続ければ文庫本一冊分のボリュームになるそうだ。
やはりよくわからない。
そもそも小説を書き上げた経験がないから、そんなにたくさん書くことが一体どういうものなのかがわからない。
小説はなくとも、詩を書くことはしてきて、詩集を一つこさえるところまでは持ってきたけれど、詩の場合、一ページに1篇ほどの詩をレイアウトするだけだから、案外すぐにページは稼げてしまうのでやはり本一冊分の分量とはよくわからない。
読む方の感覚ならわかる。簡単な小説であれば一冊2時間もあれば読める。
そう考えると恐ろしい。僕の最高速のペースで書き進めたところで、50時間かかる分量の文字がわずか2時間で読破されてしまうというのは信じがたい。
とは言え、25人が各々2時間かけて、50時間の結晶を読んでくれるのだとしたらどこか報われた気分になると思う。全くよくわからない理屈ではあるけれど、同じ時間以上の時間をかけて味わってもらえるということが表現されたものにとっては救いであって、価値の証明だと思う。
その理屈でいけば、短い時間で作ってしまえば割合と条件をクリアできそうなものである。けれど、短い時間で報われる時間はやはり短く、まして人生という長い時間にとってはあまりに短すぎる。
長い時間をかけてそのぶん長い時間人を楽しませることができるような、自分が生きた時間ぶん全部が価値みたいなものを持つくらいにやる方が張り合いがある。
長い時間をかけて一瞬の感動しか生まないような表現だとしても時の流れの中で繰り返し堪能されるようなものであれば、やはり報われる類のものなのだと思う。
音楽などを聞いていると特にそう思う。
ほんの数分の楽曲に、何人もの、何時間もの時間と労力がかけられている。
しかし、それが体験されるのはやはりほんの数分の出来事でしかない。
この部分だけ見ると音楽は途方もなく儚い営みであるように思える。
しかし、音楽が人の心を捉えてやまないことからもわかる通り。素晴らしい音楽はやはり報われる。
一回数分の感動は何人もの人間の人生になんども寄り添う。大好きなあの曲を僕は一体何回聞いただろう。oasisのwonderwallを誰かが聴いてきた時間を全部足せばきっと人一人分の命の時間を超えるだろう。人ひとり分の人生を満たすほどの感動を生むなんて、なんと素敵な営みだろうか。
まして、音楽はそれが聞かれている時だけでなく、折に触れて脳内で残響する。
思い出のバックグラウンドミュージックになる。
誰かと共有できる体験でもある。
誰かの人生を彩る時間で言えばそれは、人一人や二人ぶんの長さでは到底測れないものだと思う。つくづく、美しく、愛おしい音楽は表現だと思う。
鑑賞されるのが、一瞬ですらある芸術の数々も同様に素晴らしい。
鑑賞の仕方が難しい時もあるけれど、ああいうのはじっくり楽しむのもよし、作品と対峙した時に得たショックを反芻するもよし、身近なところに飾っておいて日常を彩らせるもよしである。インテリアとしてお利口さんにする芸術というとどこか響きは悪くなるが、人の日常に寄り添うことの何がいけないのかがわからない。全ての芸術がわかりやすく尖っている必要はない。日常に溶け込む異質さというのも芸術だと思う。
かくいう僕も部屋に、パウルクレーの複製画と自作の仮面を飾っている。
芸術、ここでいうのは特に絵画や立体芸術などと言ったものの価値というものについて考えていると、これらの価値、生み出す時間というのはいささか分かりにくい気がする。
鑑賞者が意識しなければ、その表現が生んだ時間というものが認識されない。
認識されないということは、存在しないことと同義である。少なくとも僕の考えにおいては。
故に芸術というのは先述の理屈でいうと報われにくい性質のものであるのかもしれない。芸術鑑賞によって誰かが自らの時間を充実させたと認識することなくしては、芸術は報われることはないことになり、故に、高い価値を持たないことになる。
そういう意識があるうちは、世間一般、というより一部のインテリ専門家にもてはやされているという形骸的な価値しか芸術は持ち得ない。
この世においてアカデミックな意味でなく、人間の中で真に繁栄し、価値が認められるための指標というのはやはり時間なのかもしれない。
表現によって満たされた人間の時間、あるいは報われた時間が分かりやすいことが、大切なのかもしれない。
思うに、鑑賞時間を表現側から操作するような表現が世の中では隆盛している気がする。
いわば、時間でできた表現、時間軸を持った表現、時間を切り売りする表現。
音楽、アニメ、映画などなど。これらは作品の時間が表示される。
再生時間4:33なんて具合に。
逆に4分間は鑑賞してくださいなんていう絵画を見たことがない。
時間軸を持つ表現は、少なくともその再生時間分は人々に時間を与える。
時間×再生回数でわかりやすく時間が計算される。つまり価値も認識しやすい。
特に動画という表現形態が人々の心を掴んで離さないのは、わかりやすく人の時間を満たしてくれるからだと思う。動画を見ていれば満たされる。受動的に。
逆に画像として存在する絵画などの芸術、あるいは建築といった表現は能動的な認識によって、干渉によって時間を満たしていかなくてはいけない。それなしには一瞬で終わってしまう表現だ。
わかりやすくすることが必ずしも良い方向であるかはわからないけれど、僕はどちらかと言えば時間軸を持ちづらい建築というジャンルの表現をしたい人間だから、時間軸をいかに持たせていくか、誰かにとっての時間をわかりやすく満たしていくかということを考える戦略が必要かもしれない。
食事であっても、高級とされるところではやはりそこで得る食事体験、時間そのものに価値がある。
牛丼もゆっくり食べさせれば価値が出るのかもしれないなんて考えていたら、スローフードという考え方が一部の人々の中で価値を帯び始めていた。
絵画であっても、大きさで値段がつけられたりする。
なるほど、大きな絵画はその分観るのに時間がかかる。
偶然なのかもしれないし、時間=価値は正しいのかもしれない。
ところで僕は詩を書く、詩を書くと言ってきたものの詩をブログで発表することはほとんどしてきていないけれど。
詩は一瞬で読める。
何せ長くとも数ページ、短ければ一行だ。
「何時間かけて読むこと」なんていう注釈はない。
僕は詩が好きだ。
詩は素晴らしいと思う。
人生にまつわる感情や美しさがぎゅっと結晶している。
でも、この時間を基にした価値観においては、詩の価値がわからない。
詩は間違いなく縮小している芸術だ。
きっと結晶した時間を解きほぐすことで詩の時間は報われた時間になるのだと思う。
果たして、詩の時間が報われるためにどんなことができるのか。
詩の価値はなんなのか。
僕にはまだわからない。
でも、詩の時間が報われるほど人が、自分の時間を満たしやすい精神状態を得たとしたらそれは、すごい楽しいんじゃないかと思う。
今日のペースもやっぱり2000文字/1h。1時間半で3000字とちょっと。
何を書こうか決めていなかった割には、意外なほどいろんなことを考えられたし、面白いものがかけた気がする。