挿絵作りと私の仮面
今日はペンでお絵かきをしていました。
夜更かしをしたせいで昼頃にダラダラと起きてきて、遅い昼食を食べながら「ゴーストバスターズ」を観、結構面白かったなーなどと思っていると無性にモヤモヤしてきたのがことの発端です。
東京旅行で最新、一流の建築やデザインを目の当たりにして創作意欲が掻き立てられていたにもかかわらず、旅の疲れのせいにしてだらけていたツケがぐわっとやってきたようで、何か作りたい衝動がもはやストレスになってしまっていました。だから、絵を描こうと、そう思い立ちました。
決めてしまえば早いもので、家にあった小さめのクロッキー帳に0.2のドローイングペンと0.03のコピックで思いつくまま描き始める。描き始めてしまったらもっと早いものでした。自分の詩集の挿絵として使おうと決めて、あらかじめ詩集を読み返してなんとなくイメージを持ってから描き始めたこともありさらさらと描けました。
ブログに絵をアップするのは実はたぶん初めてです。
上から順に書いて行ったので後半の方がペンに慣れていっているかもしれません。
昔から絵心には自信がない、というより散々周りの人から下手くそと言われ続け、ややコンプレックスを抱えてやってきたこともあって、うまく描けているとは思えませんが、描くということそのものが非常に楽しかったです。発散し、定着した。
なぜ、うまく描けたとも思っていない絵をネットにアップするのかということが、不思議かもしれませんが、これには一応理由があります。それは下手くそでも楽しそうにやっていたら清々しく、それをみた人が、自分も描いてやろうじゃないか、作ってやろうじゃないかと思うかもしれないからです。むしろうまくない方がいい。実はこれはほとんど岡本太郎の受け売りです。名言が多いので探すのが大変かもしれませんが、元は、音痴が集まって、下手くそであろうとも自由に歌い合う会を開いていれば、時期にその清々しさを羨んで歌の上手な連中だって輪に入れてくれと言い出すだろう。みたいな言葉でした。
僕はこれにビビッときて、共感したからには、下手でもなんでも自由にやることを実践してやろうと思っています。何度か書いていますが、それがこのブログの初期衝動でもあります。
楽しい以上に描くことや作ること、表現することは、生きるためには必要なことで、ナンセンスではありますが、欠かせないことです。歌うことでも、描くことでも、書くことでもなんでもよくて、ましてそこにお金とか意味とかが発生するとかどうでもよくて、ただ単純に表現することそれ自体が健やかに生きる糧になる、というのが私の持論です。そして、そんな生きるための行為が、意味やらお金やらに押しつぶされてしまっているのが気持ち悪くて仕方ないので、微力ながらも抵抗してやろう、ちょっとでも私が生きやすい世の中にしてやろうというのが野望です。
自信の無さと、表現欲とささやかな野望色々と混じり合った結果、ペンネームでこんな活動をしています。自分の中の表現欲、野望の部分を集めて固めて作ったのが「幸田アダ」であって、これは私にとっての一つの仮面です。愛すべき変身願望の受け皿。
胸にしまっておいて、冷めないようにするもので、いちいち言うまでもないようなことかもしれませんが、言わないと、書かないと伝わらないので。誰かにとって、これが面白い言葉だったりすると面白いので。
私の考えを長々と書いてしまいましたが、ここからは今日の絵を振り返ります。
まずは、これ。
「穴」と言うタイトルの詩を読んで描きました。
画力があったらいいなとは思いましたが、描いていると気にならなくなっていきました。そんなことよりも描きたい。下の方に寝かせてある花がお気に入りです。
「中毒」より。
生きて泳ぐ魚が美しいのに、死んで伸びてしまった魚たちを想像してしまったのが不思議で描いていたら、まさにこの詩のことだと思ってハッとしました。
「すまいる」より。
詩を読んでパッと出てきたのにもかかわらず、描き上げるのに時間がかかった一枚。
イメージ通り描けました。
読者の方は詩を読んでないので、何が何だかわからないと思うのでこの記事の最後に三つの詩を載せようと思います。
詩と挿絵の関係は人それそれなので、違う詩と絵が響き合うこともあるかもしれません。それはそれで面白いです。
詩ありきの挿絵はペンで描きながら進めるのでどんな絵になるのか最後までわからないけど、答えじみたものだけが胸の中にあるむず痒い創作です。でも楽しい。
詩を作るイメージと絵を描くイメージはすごく似ている部分と似ていない部分があって、その行き来が前述の通りスリリングで面白いです。
詩を読んで絵を描くことも、絵を見て詩を書くこともきっと誰でもできることで、かつ人それぞれ出来上がるものが違うはずなので、何人かで集まって、一度やってみたいです。
では最後に詩を3篇。番号は作品番号です。
「穴」48
どこにもつながらない穴を見つけた
僕はヤッホー、叫びこんだ
返事もなくてただただ響く
次の日、黒い穴の底を眺めていた
底は暗く揺らめいているように見えた
また次の日、道端の花をふと投げ込んだ
音もしなければ、もちろん喜びもしない
ある日、人には見せない詩を投げ入れた
来る日も来る日も返事はない
穴はいつでも深く真っ暗なままでいた
それでもどうして、穴が心地よかった
そして誰に対してでもないはずの愛してるを叫び込んだ
「中毒」40
なんでそうなるの。
そんな悲しいシナリオなんて書いてなかったくない。
もはや悪い方向に進んでいかないと落ち着かない体になっちゃってるの?
あるかもしれない悲しみにばかり目をやるのはどうして?
「悲劇はきらい」と言う君の手にはチューブ詰の悲劇。
「すまいる」64
勝手に深く潜って
底の方
重っ苦しいのに耳を澄ましていると
街でもすごく静かで
これなら上手くやれる
静かなところで
あなたの前で
僕は笑って見せることだってできる