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徒然ラボ

くだらないことがおもしろい 好きなんだからしかたない

ブコルスキーのせい

毎日書きたいと思うことがポッと湧いてくるたびにツイッターで消費する日々。

前にも書いた気がするが、僕はチャールズ・ブコルスキーのように書きたい、書くことそれ自体が目的であるように書きたい。

彼はテクノロジーに抵抗のない人間だったのでタイプライターの時代に率先してコンピューターを取り入れ、書いていた。彼にとって大事なのは書くことにまつわる格式や方法論ではなく、書くことそれ自体であったから、より滑らかに自在に文章を操れるコンピューターこそ書くのにふさわしかった。

遅咲きだった彼は、惨めに放浪もしたし呑んだくれた。作家になることを諦めることもあった。なりふり構ってられなくなっても書いた。くそったれを人生に突きつけながら、書いて書いて書きまくった。作家としてうまく行ったとき、彼はもっと書くようになった。書くことが彼にとって重要だった。

今、僕もコンピューターの前に座って書いていることにはかわりない。

では、Twitterを開いて書いていることはどうなのだろう。

文字制限を除けば、やっていることそれ自体は変わらない。どちらも書いている。短いセンテンスを思いのまま書き上げては投稿する。書いていることに連鎖して思考は回転し新しい言葉が紡がれていく。体感的にも悪くない。スポーツをしている時のような流動的な身体感覚。

しかし、くそったれなことに、気に入らない。

つぶやきよりもブログの方がずいぶん上等であるという感覚が頭を離れないのである。

ブログはツイッターと違って短く投稿を重ねる形式ではない。ツイッターはいわば一息での思考だ。実にリアルタイムだし、気軽なものだ。ブログはそうでない。

何回もの深い呼吸を重ねて、言葉を紡いで行かなくてはいけない。長い潜水のようなものかもしれない。集中力を必要とする。しかも、忌まわしいことに今書いているこの行の上にはずらっとそれまでの呼吸の跡が常に見えるときている。一息ごとにはごまかせていたような粗も、大きな流れの中では早々に顕在化する。そして溺れる。

故にブログを書いている時間は非常にナーバスなものである。湧き上がる思考の波を、滑らかに紡がなくてはならない。それをやりおおせることは、つまり表現であり心からの喜びであるが、できないことは自己嫌悪をさえ生み出す。無視することもまた然りである。見て見ぬ振りができない奔流をあしらうのがいわばツイッターなのだろうが、精神安定剤程度でしかない。なぜならブログで書くような長い文章にしかない、あの自由さ、思考の流れの解像度、そしてスリリングさを知ってしまっているからだ。知ってしまった以上は、妥協は妥協でしかありえない。

それに僕はブコルスキーを知ってしまった。

パソコンでまとまった量を書く彼の文章を読んでしまった。

日記のように、夜毎、マシンに向かって二時間ほどを幾夜も重ね、書いた作品を。

思わず考えてしまう。彼が今の時代に生きていたとして、ツイッターでつぶやいていたとして、果たしてこれほど魅力的で自在に書けていたかと。

答えはきっとノーなのだと思う。

彼のせいで、ツイッターは、僕の書くことは、ただの慰めに落ちぶれさせられてしまった。本当に書くことの、思考を発散させることを見せつけられてしまったから。

くそったれ。

もし、彼がつぶやいたとしてもきっと、このくそったれ。の一言だけだったのかもしれない。生きているうちに見える日々の機微というものは、ツイッターには複雑すぎる。強いて言えば、くそったれの一言に終始する。一息で考えることのできない、息苦しい思考の先に、くそったれではすませれない先に、命の肌触りがある、悪くないものがあるのだと、そう思う。

人生適当にあしらってるだけじゃ楽しめないね。くそったれ。

 

死をポケットに入れて (河出文庫)

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