徒然ラボ

幸田アダのブログです

無意味は無意味に心を揺さぶるから幸せで価値。

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やってみたかった手書きブログ

コピー用紙を切らしていたので無印の落書き帳にlamyで書いてみました。

書いてる時は書き心地が気になったとはいえ、写真で見てみるとこんなもんかなって気もする不思議な体験です。

人の字ってすぐに自分のじゃないって違和感をまとってるのに、いつもと違う感じの自分の字にはそんな感じが全くない。

達筆とかそういう時では全くないけれど、僕は自分の字が好きです。

昔から字が死ぬほど汚かった僕はそれで散々怒られたり困ったりしてきたのですが、中学の時一念発起して毎時間のノートの字を綺麗に書くように務めた結果、卒業の頃には国語の先生によく頑張ったねと褒めてもらったことを覚えています。良くみて下さってたんだなと感動しましたね、あれは。

字に関するあれこれは僕の学生時代に通底するアイデンティティみたいなところがあります。字が汚かった頃から文章や文字を書くのは好きで、でも汚いやら、下手やら言われるのは嫌でみたいな得意じゃないけど好きで、でも怖くて、みたいなやきもきした感情を文字に持っていましたが、やきもきを構成する一要素、つまり字が汚いことを中学時代にちょっと頑張って解消したことで、今では素直に好きです。

複雑な思いを持ったものを素直に好きになるために、足を引っ張ってるものを、ちょっと頑張って解消してやるのも大事だなと思います。基本的にはできることとか好きなこととかをやればいいと思いますけど、それにまつわる面倒をやっつけるためにはちょっと頑張らなくてはいけなくて、そのちょっとで結構楽しく、楽にやっていけるというのを思い出しました。

好きを伸ばすのは大いによし、でも変なコンプレックス引きずり続けて全部腐らせるくらいなら、苦手も直視しないといけない時もある。

中学時代の僕は字を意識して書くようになった結果、ノートを書くのも上手くなったので、苦手をやっつけようとするといろんなことが改善するのかもしれません。

少なくとも、書くことが嫌いにならなくなったおかげで僕は今でも書くことで僕を保てています。

手放しに大好きで仕方なくて熱中できるものがある人は少ない、誰しも一方で後ろめたさを抱くと思いますが、というか今、僕がその問題に直面していて、悩ましい毎日を送っていますが、好きなものを好きでいるために、やれることをやり続けるためには時には踏ん張らないといけないなといけないですね。

 

雑記は何の筋書きもなしに書きなぐっている状態なので、やはり思考も日頃考えていることに引っ張られがちですが、今は文字の話。

僕は自分の文字も好きですが、人の文字も好きです。

読める方がいいのはいいんですが、癖字でもいい。

みんなおんなじように教えられたはずなのにあんなにいろんなふうに進化していくってほんと不思議ですよね。

そんな不思議に進化してできた手書きの文章もすごく良い。

みんな文法に則った正しい言葉づかいで文章を書いていこうとするから、ほぼほぼ文体としての個性はあまり生まれないのに、それを形作る文字が個性を生んでやまない。

書きなぐるみたいな勢いで書かれた文字はそれだけでその人の思考のスピードが感じられるし、いかつい顔した人が丸字で小さな文字で書いていれば実は優しい人なのかもとか思う。

わかりやすい例でなくとも、何となく好きな字を書く人は面白い文章を書いていたりして、好きな子は好きな字を書いていたりして、すごく面白い。

手書きの文字って単純に個人にまつわる情報量が多いです。

一発書きのペン字とかなら特に。

文字のスピード感、濃さ、大きさ、余白の取り方、修正の多さ、一発で書かれた文章の内容.....

いわゆる情報としては無価値な、曖昧で主観的で、フェティッシュな情報がたくさん。

業務的な書類や論文とかの情報を伝える媒体としてはパソコンの文字が便利なのは当たり前ですが、コミュニケーションとしての手書き文字って僕は大好きです。

好きなものは好きって言わないとなくなると聞きましたが、手書き文字にはなくなってもらいたくないです。

朗読とかもですが、何かを介さずに直接人力でやるアナログなことって、無意味な情報量たっぷりだと思います。

無意味だからその価値は愛せるかどうかで、好きって言わないと価値が生まれないから世知辛いですね。意味と価値の二つの言葉の間には距離感。

でも無意味は無意味なりに無意味な感情を揺さぶるので、手書きとかってやっぱり人間関係に効くんじゃないでしょうか。

無意味で感情を揺さぶって意味を生むってかっこいいし、幸せですね。そんなふうに意味の世界を生きていければ楽しそう。

 

今日はおしまい。